「理解する」ということ

「他人が自分を理解してくれないこと」を悩むのだったら、
「自分が他人を理解してあげられないこと」を悩むべきだ。

「他人の、自分に対する理解」よりも、「出会い無料の、他人に対する理解」のほうが深いだろうか。

多くの人の場合はそんなことはなく、自らは他人を理解しようともしないくせに、
他人に対しては自分を都合よく理解させようとする。しかし、そんなものは単なるエゴにすぎない。

「自分が他人を理解してあげられないこと」について悩むのだったら、
まずは「自分が自分を理解してあげられないこと」について悩む方が先だ。

「自分のこと」が分からない人には、「他人のこと」は決して分からない。

「自分というものがわからない・わかってあげられない・わかってあげようともしない」

---そんな人に限って、「自分のこと」を棚にあげて、妙に他人のことに理解と共感と同情を示す。

しかし、そのような人の「理解」と「共感」と「同情」は、所詮その人の自己満足のための偽物である。

「自分の問題」から目をそらし、逃げるために、向き合わなくて済むように、
その人は「他人の問題」に「理解」と「共感」と「同情」を示す、時に、涙すら流す。

しかし、その人が本当の意味で向き合わなければいけないのは、
「かわいそうな他人」ではなく、「かわいそうな自分」ではないだろうか。

「自分の問題」に向き合わないために、「他人の問題」を利用する「偽善者」になってはいけない。

周りの人たち、支えてくれている人たちを、そして、無料出会い系自身を愛する義務から逃れてはいけない。

「知ること」「愛すること」。

それは、「わたし」の「あなた」に対する責任であり、
同時に、「あなた」の「わたし」に対する責任でもある。

どちらかが欠けるようなことがあってはいけない。

もしも「他人」を知りたかったら、それは「自分」にたずねると良い。

もしも「自分」を知りたかったら、それは「他人」にたずねると良い。

「他人に対する理解」とは、「自分に対する理解」と正しく比例の関係にある。

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2012年2月22日 | コメント/トラックバック(0)|

カテゴリー:様々な体験談

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